English Poetry and Literature
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T.S.エリオット「荒地」を読む



死者の埋葬1:エリオット「荒地」
死者の埋葬2:T.S.エリオット「荒地」
死者の埋葬3:T.S.エリオット「荒地」
死者の埋葬4:T.S.エリオット「荒地」
チェス遊び1:T.S.エリオット「荒地」
チェス遊び2:T.S.エリオット「荒地」
チェス遊び3:T.S.エリオット「荒地」
火の説教1:T.S.エリオット「荒地」
火の説教2:T.S.エリオット「荒地」
火の説教3:T.S.エリオット「荒地」
火の説教4:T.S.エリオット「荒地」
火の説教5:T.S.エリオット「荒地」
水死:T.S.エリオット「荒地」
雷がいったこと1:T.S.エリオット「荒地」
雷がいったこと2:T.S.エリオット「荒地」
雷がいったこと3:T.S.エリオット「荒地」
雷がいったこと4:T.S.エリオット「荒地」
雷が言ったこと5:T.S.エリオット「荒地」
雷が言ったこと6:T.S.エリオット「荒地」







T.S.エリオットの「荒地」は現代詩の幕開けを飾る記念碑的な作品だということになっているが、決して読みやすくはない。というより(特に我々非ヨーロッパ人にとっては)難解である。エリオット自身が原注の中で、この詩はアーサー王物語と聖杯伝説とのかかわりについてのウェストン女史の研究「祭祀からロマンスへ」に触発されたと書いているので、その方面の物語を連想させるのかと思えば、そう単純なことではない。確かに、詩の舞台はロンドンに始まり、テムズ川から地中海へ、そして東ヨーロッパからインドを経由して再びロンドンに戻って来るといった具合に壮大な旅を連想させないことはないが、旅がこの詩のテーマだとはとうていいえない。したがってこれは、聖杯伝説の物語のような、旅がテーマの叙事詩とはいえないし、他のどんなジャンルの詩とも似ていない。

また、同じく原注のなかでエリオットは、フレーザーの「金枝篇」の、特にアドニス、アッティス、オシリスを扱った部分を参考にしたともいっているが、たしかにそれらへの言及と思われる部分は散見されるが、それらが詩の進行にとってどんな意義を持っているのか、必ずしも明らかでない。というわけでまず、読者はこの詩のテーマらしきものをとらえるのに苦労するのである。

難解なのはテーマばかりではない。まず語り方が型破りである。語り手からして一人ではない。普通、詩というのは詩人によって書かれたテクストということになっている。そしてそのテクストは一人の詩人によって書かれたというのが常識的な前提だ。ところがこの詩は、誰がテクストの作者なのか、必ずしも分明でないところがある。語り手がころころと、しかも予告なしに変るのだ。語り手を変化させること自体は、テクニックとしてありうるかもしれないが、この詩の場合には、語り手が変ることによって、テクスト自体が分裂してしまうのだ。その結果どういうことになるかというと、一つの詩がいくつかに分裂するというよりは、そもそも関係のないものが寄り集まって新しいテクストを形成するといったような事態が現れる。評者によっては、これを指してコラージュと言うものもあるようだ。コラージュとは継ぎはぎ細工と言うのが原義で、パッチワークのようなものだ。つまりこれは、一つのテーマに貫かれた統一性のある作品と言うより、コラージュ的な寄木細工と考えられなくもない。

古典からの引用が、それも外国語のテクストのままの引用が多い。したがって読者は引用された古典についての知識を要求される。その知識がないと、何を言っているのかが理解できない。エリオットの引用する古典は、主としてダンテと聖書だ。両方ともヨーロッパ人にとっては、身に染みてわかっているもので、日本人にとって万葉集や芭蕉のテクストに相当するようなものだ。エリオットがこうした引用をすることには彼なりに考えた意義があるという。つまり古典を引用することでエリオットは、自分がヨーロッパの文学的伝統と強く結びついていることをアピールしたのだろう。彼は自分の立場を指して古典主義といったそうだが、それは古典を頻繁に引用するということにもあらわれているのだろう。

以上は主に形式面から見た印象だ。次に実質面から、この詩の特徴を腑分けしてみよう。

荒地という言葉は「聖杯伝説」からとられているのだそうだ。それは聖杯が失われたことで国土が荒廃したというイメージをあらわしていたわけだが、エリオットはその荒地のイメージを同時代のヨーロッパに重ねたのだ。この詩が書かれたのは1922年前後のことで、ヨーロッパは第一次世界大戦による荒廃のイメージに包まれていた。そんな時代にあってエリオットは、ヨーロッパが荒廃に陥った原因とそこからの解放の可能性を考えながらこの詩を作った。そう解釈できる部分がある。

この詩の中では、いたるところで都市生活の腐敗が言及されている。このような腐敗が積み重なってヨーロッパは荒廃への道をたどった、とするのがエリオットの基本的な見方だ。そしてそうした腐敗をもたらしたのは、現代の機械文明なのだとする時代認識がエリオットにあって、そうした認識がこの詩の至る所で顔を出す、という具合になっている。エリオットの機械文明批判は、人間までをも機械として見る見方などに鋭くあらわれている。

荒廃とそこからの解放の可能性ということについては、金枝篇からのオシリスなどの神話と重ねながら語っている。その神話の主なモチーフは死と再生ということだ。オシリスは弟のセトに殺され、バラバラに切り刻まれてナイル川に放り込まれたが、妻のイシスがそれらを拾い集めてつなぎ合わせると、再生して冥界の王者となった。その隠喩のような形において、一度死んだヨーロッパに復活する可能性はあるのか、というモチーフを持ち出し、この詩のひとつの柱とした、ということなのだろう。

聖杯伝説に出てくる漁夫王も、エジプトの神話に出てくるオシリスも、どちらも海のイメージと結びついている。そこでこの詩では、海と水とがもう一つのモチーフとなる。それも基調低音となってこの詩全体に響き渡るようなモチーフだ。水のイメージは、その正反対たる乾燥や火のイメージを呼び起こす。乾燥や火は荒廃を招き寄せる元凶だが、すべてを焼き尽くすことによって、それらを再生させるというイメージにもつながっていく。というわけで、この詩は、様々なモチーフが重なり合って、重層的な音を鳴らしていく、という構成になっていると言える。

以下、この詩を詳細にわたって読み解いていきたいと思う。読解の手がかりは、主にエリオット自身の手になる原注だ。





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