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ロバート・バーンズ :詩の翻訳と解説



ロバート・バーンズ Robert Burns (1759-1796) は、スコットランドの民族の誇りといわれる詩人である。今でもスコットランド人にとって、単に「吟遊詩人」 The Bard といえばバーンズをさしているくらい、彼らの生活の中に溶け込んでいる。バーンズの誕生日には、世界中に散らばったスコットランド人が、バーンズ・サパーと呼ばれる料理(腸詰の一種)を食べ、Auld Lang Syne を歌う。建国記念日に準じた扱いを受けているのである。

ロバート・バーンズは古いスコットランド語、またはスコットランド方言を用いて詩を作った。新たな創作は無論、スコットランドに古くから伝わるフォークソングを採集して、それらに新しい命を吹き込んだ。バーンズの詩の著しい特徴は、音楽性にあるが、それはフォークソングに傾倒した彼の創作態度に根ざしている。

ロバート・バーンズはまた、ウィリアム・ブレイクと並んで、イギリス・ロマンティシズムに先鞭をつけた詩人でもある。この二人はわずか2歳しか違わない(ブレイクが年上)。しかし、終生スコットランドを舞台に活躍したバーンズは、ブレイクとは交友がなかったようだ。

ロバート・バーンズはスコットランドのエーアシャーに生まれた。父親は貧しいながら農場を経営し、バーンズは子供のころから、農場を手伝った。成人してからも、自ら農場の経営に意欲を持った。そんなところから、バーンズは「鍬を振るう詩人」とも呼ばれる。彼の自然に対するみずみずしい感性は、こうした少年時代に養われたものである。

バーンズの詩は、自然を歌ったもののほかに、愛と別れをうたったもの、社会的な関心をうたったもの、スコットランドの政治的な自立を鼓舞したものなど、多彩である。彼の社会に対する鋭い問題意識は、ブレイクと共通する。

バーンズは22歳のときに、フリーメーソンに加入した。このことが彼の生涯にどのように影響したか、くわしくはわからぬが、彼の博愛主義的な傾向や社会に対する鋭い関心などは、フリーメーソンの活動とも関係があると思われる。

バーンズは多感な青年で、短い生涯に何度も恋愛をしている。フリーメーソンに加入したころ、アリソン・ベグビーに恋をし、ラブレターを送ったのが初期のものだが、これは女性によって振られる形でおわった。

20歳台半ばには、同時に複数の女性とラヴ・アフェアをしている。一人は母親の召使エリザベス・ペイトンで、女の子を産ませている。また一人はジーン・アーマーという近隣の女性で、彼女には双子を生ませたが、彼女の母親の強い反対にあった。それでというわけでもないだろうが、今度はメアリー・キャンベルという女性と恋愛関係に入り、ともにジャマイカに高飛びする計画を立てた。しかしこれはメアリーの突然の死によって終わった。

20歳代後半には、アグネス・ナンシー・マクリーホースと恋仲となった。バーンズはナンシーに肉体関係を迫ったが、彼女はプラトニック・ラブにこだわったため、はけ口をナンシーの召使ジェニー・クローに求め、一人の男の子を産ませた。

こうしてみると、ロバート・バーンズという男は、女性にはめっぽう気が多かったことがわかる。

そんなバーンズだが、1788年になってジーン・アーマーとよりを戻し、無事結婚することができた。それ以降は浮ついた話はないらしく、ジーンとの間に9人の子を設けている。

詩人としてのロバート・バーンズの名を一躍高めたのは、1786年に出版した Poems である。俗に Kilmarnock Edition と呼ばれている。また、1787年にジェームズ・ジョンソンによって出版されたスコットランド民謡集に、多くのフォークソングを寄せた。

1790年には、Tam O' Shanter. を発表し、フォークソングの発表も引き続き行った。

バーンズは少年時代の過酷な労働によって、若いころから健康に優れなかったが、リューマチを悪化させて、37歳の若さで短い生涯を終えた。ここでは、そんなロバート・バーンズの代表的な詩を取り上げ、和訳したうえで解説を加えたい。


故旧忘るべき Auld lang syne

真っ赤なバラ A Red Red Rose


ライ麦畑を突き抜けて Comin Thro' The Rye

二十日鼠へ To a Mouse


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